吉崎寺案内 坂井郡金津町吉崎2−209 電話0776−75−1920
吉崎寺:本願寺の蓮如上人(親鸞上人から八代目)が、文明三年(1471)越前国(福井県)と加賀国(石川県)の境にある吉崎に来られて、この地方の名主大家彦左衛門吉久の協力をえて吉崎道場を作り、浄土真宗の教えを広められました。この時、大家彦左衛門吉久は蓮如上人の弟子になて慶聞坊と法名を頂き、本堂を建てるため自分の所領(吉久名の内)千歳山一万坪を上人に寄進しました。上人は吉久の館で教化しながら山上の諸堂が完成するのを待たれました。それが吉崎寺で、蓮如上人が吉崎布教の第一歩をしるされた旧跡寺です。

背をわれた蓮如上人の銅像:文明六年(1474)三月二十八日、千歳山上の多屋(僧の仮住居)から出火し、十棟が焼けました。その時なかなかその場を離れなかった蓮如上人を大家彦左衛門吉久・慶聞坊が背をい、浅瀬を渡り安全な所まで避難しました。この時の模様が福井市称名寺と吉崎寺に蓮如上人の署名入りの絵「吉崎山上火難の図」として残されています。吉崎寺の本堂前に建つ銅像は、吉崎寺の「吉崎火難の図」と「蓮如上人御自画像」をもとに日展入選の般若純一郎氏が制作されました。蓮如上人の銅像としては、非常に珍しいものです。
吉崎の名主・大家彦左衛門吉久・慶聞坊の墓:室町時代、この吉崎地方一帯は大家彦
左衛門吉久の領地であった。
本願寺八世蓮如上人は京都を逃れて、文明三年(1471)この地へ来られた。
その時、吉久は上人の弟子となり、慶聞坊という法名を頂き、自分の館と一万坪の山を上人に提供して布教につとめた。
これが吉崎寺の始まりである。この寺から浄土真宗の教えは全国に広まり、本願寺は国内最大の教団にまで発展した。